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藤村隆史映画批評

以下は修正せずそのまま出しました。「映画批評」シリーズは映画館で見て封切中に出された批評です。この作品は三回見て書かれています。私はビデオ、DVDを見て論文を書くことが多いですから、映画館で見て封切中に書くこのシリーズは私自身、メモを取らずにどこまで書けるかの証明の場でもありました。こうしたことを積み重ねて行って、ある種の集大成ともいえる「ヒッチコック・ホークス主義」の論文へと到達したのです。2023年5月13日・藤村隆史。

「トウキョウソナタ」(2008)黒沢清の変貌について~成瀬巳喜男の風は生きている 2008.12.10初出

■①開かれた窓

映画が始まると、キッチンから一段下がった居間に据えられたカメラがゆっくりと右に移動しながら、ダイニングキッチンで風に吹かれてテーブルから落ちてゆく新聞を捉えている。まるで前作「叫(さけび)」のラストシーンの、風に吹かれた新聞紙からそのままつながれたような映画の始まりに驚く間もなく、カメラは右手前のソファーの上で風に吹かれ、ひらひらとページのまくれている雑誌を映し出している。すぐさま画面はキッチンに据え直されたカメラから180度切返され、そこでは薄暗い居間の白いレースのカーテンが風に揺れ、30センチほど開け放たれたサッシの隙間から雨が吹き込んでいる。外から刺す西日によって逆光気味のシルエットとなって現われた主婦の小泉今日子が、サッシを閉め、濡れた床をふきながら、ふと思い出したようにサッシを開けて、遠くの秋空をじっと見上げている。これは夢なのか。

夫の香川照之が、揺れる風のシルエットが白い壁にうっすらと反射する健康機器会社のオフィスで突如リストラを言い渡される。香川照之は、高層団地が追い被さるように聳え立つ「中央緑地公園」と書かれた公園へ行き、石のベンチに座って周囲を見渡す。そこには、リストラされた失業者と思われる男たちがキッチリとした背広姿で座っている。ベンチには、太った男が隣の男に「まずハローワーク(職業安定所)に行かないと、、」と説教している。それを聞いた香川照之は、慌ててハローワークの階段を上って行くが、すでにその日の受付は締め切られている。階段で行列を作っている者たちは、決して話しかけることも、話しかけられることも無い。香川照之は仕方なく階段を下り、デスクの私物を入れた二つの紙袋を大通りの交差点のゴミ箱へ棄て、とぼとぼと帰宅の徒につく。

その後香川照之は、日の翳ったV字路で、小学生の息子、井之脇海と出くわす。香川照之の肩には、重そうなショルダーバッグが掛けられている。息子の肩にも、本人が「重過ぎ」と嘆くように、重そうなリュックが掛けられている。父は、開いていた息子のリュックのジッパーを閉めてやると、親と子は、揃って家の階段を上がってゆく。坂道の途中にしがみついているような小さな家には、強烈な西日が差し込め、そのすぐ側を電車が轟音をけたたませながら、映画を通して三回、通過してゆく。香川照之は、嘘が付けない性格なのだろうか、玄関から入ることがうしろめたいらしく、いきなりベランダから入ってエプロンをした妻のキョンキョンを驚かせてしまう。カメラも驚いたのだろう、手持ちカメラへと即切り替えられ、ひらひらと揺れ始める。次のシークエンスで、濡れ衣を着せた先生をやりこめた教室での井之脇海の姿もまた、シークエンスの終わりでは、ゆれを強調した手持ちカメラで撮られている。香川照之はリストラという理不尽に、井之脇海は濡れ衣という理不尽に、それぞれ揺れてゆく。二人は似た者同士なのだろうか。

香川照之にはもう一人の息子、小柳友がいる。友人の50ccのバイクの二人乗りで帰宅する彼は、母の小泉今日子に少し眠るから電気掃除機は使わないで、と二階へ駆け上がる。大学へ行っているのかどうかも判らない長男に、父は翌朝、玄関から長男の部屋がある二階を見上げながら、いつものように「出勤」してゆく。秋も深まってきた枯葉の中を出勤してゆくサラリーマンの行列を、香川照之は羨ましそうに見つめている。

学校での教師とのトラブルのあと、閑静な住宅街を、リュックをぶんぶん振り回しながら歩いて来た井之脇海は、ふとピアノの音に轢き付けられて立ち止まる。中を見ると、大きく開け放たれた窓の家の中で、ピアノの先生らしき女がピンクのカーディガンを羽織ながら、小さな女の子にピアノのレッスンをしているようだ。井之脇海はじっと中の様子を見つめている。

ここまで、開け放たれた窓が二箇所出て来る。一度目は映画の最初のシークエンス、雨の中、「閉まっていなければならない窓」が開いている。小泉今日子はすぐ窓を閉めるが、何かを思い出したように窓を開け、遠くの空を見つめている。もう一度は、井川遥のピアノ教室の窓である。庭に面した大きなガラス戸は、前面左右に大きく開け放たれ、まるで成瀬巳喜男の映画の縁側のように、見る者を吸い込むように開放されている。成瀬巳喜男もまた、「トウキョウ」の映画を撮り続けた作家であった。

■②リストラ
食卓に家族四人が集まる。母が息子に「たかし!」と注意すると、大学生の息子は読んでいた本を脇に置き、静かに父が食卓に着くのを待つ。今時珍しい大学生である。息子たちは、父親が、ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりとビールを飲み干すのをじっと待っている。見ていてすまないと思えてしまうほど、彼らはじっと待っている。それを父は、当然のことと思っているようである。弟の井之脇海は、ピアノの先生に香川照之のことを「うちの父は」と呼び、自分と敵対することを公言して憚らない教師、児嶋一哉に対してすらも敬語を使って接している。そんな教師、児嶋一哉が井之脇海にとった態度と言えば、「俺とお前は卒業まで無視し合い、教師と生徒という関係を演じよう」という趣旨のことであった。兄の小柳友もまた、父や母に対して筋道を立てる息子であり、アメリカの傭兵となってイラクへ行く時も、父と母に承諾の手続きを取るような律儀さを有していて、最後は母に敬礼までしてくれる息子である。母は、自動車免許を取ったことを息子の小柳友に自慢しながら、ドーナツを作ったり、夕飯を作って夫の帰りを待っていたり、この映画では、父、子、妻、母、教師、生徒という「役割」を、みながそれぞれ、冷たすぎるほど見事に「演じて」いる。彼らが「演じていること」に気付いたとき、映画は動き始める。

香川照之は、総務課長という「役割」の呪縛から自由にはなれない。リストラされたサラリーマンたちもまた、「役割」を演じ続ける事でかろうじて、みずからの自己同一性を保っている。自己同一性を保つために彼らは、決してしゃべろうとはしない。ハローワークの階段の壁には、「携帯電話禁止」、「おしゃべり禁止」の貼り紙が貼ってあるからだろうか、階段で列を作って並んでいる者たちは、決して言葉を発しようとはしない。社会においての「役割」という「である」を引き剥がされた彼らは、しゃべることも、携帯電話に出ることも禁止され、背広や鞄によって身を包み込む事でみずからの「役割」を演じながら、だがその役割が「演じられたもの」に過ぎない事を決して認めようとしない。ショッピングセンターで働く掃除夫たちもまた、「わたしは~である」ことから抜け切れず、彼らは同僚たちに会話をする暇を与えることもなく、仕事が終わると挨拶もせず、ある者は背広という「役割」に戻ってさっさと家へと帰ってゆく。彼らにとってはサラリーマンという「役割」こそ唯一の「わたし」という実在する存在であり、「わたしは~である」という自己同一性にほかならず、現在の掃除夫という「役割」は、或いは「無職」という「役割の不在」は、まるで亡霊にでもとりつかれたごとき厄介者であり、彼らは常に無言で、そして素早く行動することで、その亡霊を振り払い続けているかのようである。コミュニケーションは必ずや彼らを破滅に導くと彼ら自身が知っている。彼らにとって、ハローワークの階段や緑地公園や雑居房で、他の者たちと「しゃべること」とは、みずからが「演じていたに過ぎないこと」認め、亡霊たちと付き合ってゆくことに他ならない。しゃべることとは、「死」を意味するのだ。

その中で、携帯電話禁止、おしゃべり禁止の規則を破った者がいた。彼は、みずからの「役割」が「演じられたもの」であることを隠そうとはしない。津田寛治は携帯電話をセットしてしゃべり続けることで「役割」を見事に演じ続ける。あろうことかハローワークの階段でも津田寛治は大声でしゃべってしまう。もうこうなると処置なし、「しゃべること」とは「亡霊」と付き合うことだということを、彼は知らなかった。彼がドライに演じれば演じるほど、妻の疑念は深まって行き、中学生の娘にはリストラを見破られてしまった彼は、無理心中という選択をする事で、役割をまっとうすることになる。

■②狭いこと

この映画にはロングショットがほとんどない。黒沢清の映画にロングショットが無い、という信じられない事実に我々はどう対処すれば良いのか。緑地公園で配給の弁当を食べている香川照之を、小泉今日子が橋の上から目撃したシーンや、夜のマジックアワーの中、小泉今日子と役所広司が二人で海の家へ向かって行くショットくらいしかロングショットが存在しないのである。前者はすぐに、見つめている小泉今日子の超クローズアップへとパンでつながれてしまうし、後者の二人もまた薄暗い海のシルエットで真っ黒に映し出されていて、間違っても開放的なショットではない。

そしてあの自宅の閉塞感は何だろう。細い路地の坂道に、今にも滑り落ちそうになって立っている小さな家。あるのか無いのかわからない庭。門柱から玄関まで続く一人がやっと通れるような狭い階段。玄関と、上の台所と、下の居間、この三つの空間は、常にペチャンコに押し潰されていて、まったくもって「奥行き」を欠いている。例えば、最初の夜の食卓のシーンは、下の居間から撮っているように見えたのだが、良く見ると、画面の左上の方に木の葉がひらひらとボヤケながら揺れている。家の中に木の葉はないのだから、そこで初めて、このショットは家の外から撮ったことが間接的に推測される。だが距離感からして、これはどうにも「外から」のショットには見えない。いったいどんな望遠レンズを使って撮っているのだろう。家の中は、極めて「狭い」のである。さらに二つ、家の中を窓の外から撮ったショットがあって、それは小柳友が珍しく早く帰って来て食卓に皿を置いている時と、エプロン姿のまま小泉今日子が役所広司に縛られて横たえている時の二箇所なのだが、どちらのショットも「開放感」なるものからは程遠く、それよりもカメラの置き場所に困って仕方なくカメラを外に出したという感じのショットであって、この家の中に「開放」を指示する出来事はたった一つ、サッシの窓が開かれること、それだけしか存在しないのである。

鏡がない。これもまたおかしい。前作「叫」で、あれだけ鏡の奥行きの恐怖にさらされた我々は、家の中に「鏡」が不在である、という事実にどう対処すればよいのだろう。確かに鏡のようなものはなくはない。小柳友が小泉今日子と下の居間で向かい合ってアメリカ軍への入隊のことを話している時の、小柳友のバックに掛けられた物体であるとか、夢の中で小柳友が帰って来たシーンでの、台所の壁に掛けられた物体であるとか、鏡に見えないこともなくはない。だが「反射」するものとしての鏡はまったく不在である。反射したのは、掃除夫として入ったショッピングセンターのトイレの鏡に香川照之の顔が反射したのと、面接官の波岡一喜の姿がピカピカに磨かれたテーブルに反射していたくらいであって、津田寛治の家の洗面所でも、鏡の中に香川照之の顔は反映してしなかったはずだ。自宅の空間は鏡による奥行きすら拒絶され、まったくもって「圧縮」されかつ「密閉」されているのである。会社の窓、ハローワークの面接所の窓、学校の窓、警察の窓、津田寛治の家の窓、すべて閉められている。この映画そのものが、窒息しそうな映画なのである。

一見広そうに見える緑地公園は、バックの高層団地が覆い被さるように迫っているし、終盤に出て来る古ぼけた警察署の、倒れ掛かってくるような圧迫感、或いは津田寛治の家の猫の額のような狭い庭、狭いトイレの掃除、ハローワークの狭い階段、そしてロングショットの少なさと、クローズアップの多さは、映画を「密室」へと閉じ込めるのである。

それにしても、地面には路面電車のレールの跡があり、はるか彼方には観覧車が見えているあの薄汚れた警察署の圧迫感はただ事ではない。その中で井之脇海は写真を取られ、指紋を取られ、なんとまた狭い雑居房の中に閉じ込められてしまう。そこには「役割」を剥ぎ取られ、言葉を失った者たちが溢れている。

音にしてもそうだが、この映画の香川照之の自宅は、坂道の狭い路地、そして線路に囲まれていて逃げ場がなく、家の中は、車の通過する音や、電車がガタンゴトン通り過ぎる音によって常に圧迫されている。この家は音声的にも極めて「狭い」のである。

電車は全部で8回ほど家の前を通過している。通過する電車は三回ほど外部でその全貌を捉えられるが、それ以外はすべてガタンゴトンという音声か、あるいはチラチラと家の内部に差し込めてくる間断的に点滅する白い光との併用によって処理されているに過ぎない。

香川照之が居間で眠っていてうなされるシーン、アメリカ軍への入隊について父と対立した小柳友が香川照之をして「父さんは何をやってるんだよ」と非難するシーン、そして香川照之がピアノの件について井之脇海を殴ったあとのシーン、この三箇所では、電車が通過したことを暗示する白い光線だけが断続的に光っていながら「ガタンゴトン」という音声がほとんど聞こえて来ない。ここでは音声の遠近法が壊されているのだ。いったいこの映画の空間は、架空都市なのが、実在都市トウキョウなのか。夢なのか、現実なのか。視覚的、聴覚的遠近法の破壊は、「狭さ」と同時に「非現実」を実感せずにはいられない。車のフロントガラスに町並みの影が反映するおもちゃのようなスクリーンプロセスはいつものことだとしても、あらゆる遠近法を拒絶したこの映画は、あらゆる瞬間に「夢」ではないかと誘ってくる。事実この映画には「夢」が出て来る。傭兵としてイラクへ行った息子、小柳友が、家に帰って来るシーンである。おそらく紗かフィルターでも掛けているのだろう、母と息子のシークエンスは、ややボカされた空間の中で進んでゆく。

さらにこの作品は、時間の遠近法まで壊しにかかっている。ショッピングセンターのトイレで現金の入った封筒をネコババした香川照之は、清掃員の制服を着たまま急ぎ足で帰ろうとするところを、エスカレーターから降りてきた妻、小泉今日子と出くわしてしまう。香川照之は「あっ、、」と声にならない声を発したあと、逃げ去っていく。映画は次の瞬間、再びサッシの窓の開け放たれた自宅へと転換され、そこに「三時間前」というテロップが入って、小泉今日子が泥棒(と言うよりこれは強盗だが)の役所広司に襲われてエプロン姿のまま縛られてしまう。その三時間後にどうして小泉今日子はあんな自由な格好であのエスカレーターを降りてきたのか、、我々は時間的にも宙吊りにされてしまうのだ。有り得ないのである。この映画は徹底的に、我々の遠近法=慣れ親しんだ感覚を壊しにかかるのである。

■④狭さから通風性へ

この映画は狭い。余りにも狭すぎる。だからして、閉塞感に苦しむ者たちは、当然ながら、「開いた窓」や「広い空間」を目指すことになるだろう。小泉今日子は、自宅の開け放たれた窓が原因となって「海」へ、小柳友は「アメリカ」へ、そして次男の井之脇海は、、、、

もう一度、井之脇海が、初めてピアノ教室の前を通ったシーンを振り返ってみたい。閑静な住宅街を、リュックをぶんぶん振り回しながら歩いて来た井之脇海は、ふとピアノの音に轢き付けられて立ち止まる。中を見ると、大きく開け放たれた窓の家の中で、ピアノの先生らしき娘がピンクのカーディガンを羽織ながら、小さな女の子にピアノのレッスンをしている。井之脇海はじっと中の様子を見つめている。

井之脇海はピアノの音に轢き付けられたのではない。それ以上に、あの大きく窓の開け放たれた、風通しの良い空間に反応したのである。

■⑤見ること

★次男、井之脇海

中ではどうやらピアノのレッスンと思しき光景が我々の眼に入ってくる。ショットは、家の中を見つめる井之脇海のフルショットへと切返され、次に井之脇海の見た目の主観ショットへと切返され、家の中の様子が映し出される。そこでピンクのカーディガンを羽織ったピアノの先生(井川遥)が、井之脇海の視界に捉えられる。ピアノの先生は、井之脇海に見られている事を知らない。カメラは再び、家の中を見つめている井之脇海のフルショットへと切返され、そこでもう一度、井之脇海の主観ショットへ切返される。教本を持って椅子に座ったピアノの先生は、何かの気配に気付いたのだろうか、本を見ていた目をふと上へ向け、路地で自分を見ている井之脇海を見つめ返す。ここでもう一度カメラは井之脇海へと切返される。彼は、ピアノの先生と視線が合ったためか、さっと目を伏せ、そのまま路地を歩き出し、去って行く。これが井之脇海の最初の「盗み見」である。井之脇海のあの目の伏せ方は、まるで成瀬巳喜男「乱れ雲」(1968)の加山雄三のように見事である。

二度目の「盗み見」は、井之脇海がピアノのレッスンを始めたあとである。ピアノの先生は、鮮やかな朱色のショールを身につけて、自宅の廊下で電話をしている。どうやらみずからの離婚問題についての電話らしい、それをピアノに向っている井之脇海が、じっと見つめている。電話に気をとられているピアノの先生は、井之脇海に見られていることを知らない。したがってこれもまた「盗み見」である。

三度目は、兄と父との喧嘩の時である。アメリカの軍隊に入りたいという兄は、父と衝突し、階段を駆け上がる。その様子を井之脇海は、二階の自室のドアを半開きにして、左目だけでじっと覗き込んでいる。誰も井之脇海に見られていることを知らない。従ってこれは「盗み見」である。

四度目は、家出をした少年のためにウーロン茶を買ってきて公園に戻ってきた時である。井之脇海は、喘息の少年が、少年の父親たちに無理やり連れ去られるのを遠くからじっと見ている。みな、井之脇海に見られていることを知らない。したがってこれは「盗み見」である。

少年はひたすら盗み見をしている。

五度目は警察署の中である。夜の雨に濡れた道路のバスターミナルで、無銭乗車で捕まり、警察署へと連行された井之脇海は、向かいの椅子に座っている刑事の話を聞いている。カメラはまず井之脇海の後ろから刑事を正面に捉え、刑事が井之脇海の方を向いたとき、今度は刑事の後ろからのショットに切返される。その瞬間、刑事の顔を見上げていた井之脇海がサッとすぐに目を伏せる。まるで「役割」を剥ぎ取ろうかとしているような、見つめることの視線、そして伏せられる視線として、この目の伏せ方は、最初にピアノの先生を盗み見た時の目の伏せ方と同様に、間違いなく黒沢清によって意図的に指導されている。

もうここまで来ると、我々は堂々と、「これは成瀬巳喜男である」と言ってしまっていささかも構わないしまた、そう言うべきだろう。これまでの黒沢清の作品に、このような「盗み見」のショットがいったい幾つあっただろうか。黒沢清は変わりつつある。ショットの強度が、変わりつつある。

★母、小泉今日子

一度目は、自宅の居間の椅子で眠っている香川照之がうなされているシーンである。ここで小泉今日子は、香川照之の寝顔をじっと見つめている。眠っている香川照之は、見られていることを知らない。したがってこれは「盗み見」である。

二度目は、公園で香川照之が津田寛治と配給の弁当を食べている時である。ロングショットで二人を捉えていたカメラは急激に右へとパンし、橋の上から二人をじっと見つめている小泉今日子のクローズアップをキャッチする。ズームアウトと絡めたのだろうか、この凄まじい高速のパンとピント合わせは、彼女が二人を「盗み見ていた」という事実を驚きとして際立たせている。

「盗み見ること」とは「見られている事を知らない者」を見つめることである。「見られている事を知らない者」とは、「役割を演じること」から無防備な者たちであるだろう。他人から見られていない者たちは、初めて「役割」という仮面を横において、人間という存在そのものをむき出しにして出現する。「盗み見」は、それをじっと見つめる視線である。そうする事で、父、息子、ピアノの先生、という役割が剥ぎ落とされ、人間が剥き出しになってゆく。子供たちは「見られていることはない」とタカをくくっている大人たちを「盗み見て」いる。津田寛治の娘は、リストラされた津田の会社の同僚の役割を演じた香川照之に洗面所で手ぬぐいを渡しながら、「大変ですね」と意味深な言葉を残して出て行く。ぞっとした香川照之が慌てて洗面所を出てみると、娘は、まるで「まごゝろ」(1939)の加藤照子が、うちわで右目を隠し、左目だけで母の入江たか子を「盗み見」したように、階段で右目を隠し、左目だけでもって香川照之をじっと見つめている。子供は大人を見つめている。映画の中で、見つめる視線の撮られていない長男の小柳友ですら、父と兵役の事で口論になった時、「父さんは何をやってるんだよ!」と、父の失業を見破っていたことを露呈させ、父の香川照之を黙らせてしまっている。彼もまた、密かに父を見つめていたのである。バスの待合室で小柳友は、母の小泉今日子に向って「離婚しちゃえば」といって、キョンキョンを「えーっ!」と驚かせている。こんなすごい「えーっ!」などという発声は、「レディ・イヴ」のヘンリー・フォンダが何度も「エーッ!」と驚いて見せたほかは、将棋解説の佐藤康光が羽生の手を見て「えーっ!」と叫んだ時くらいしか聞いたことが無い。それくらい、すごい「えーっ!」なのである。ほんとうにびっくりしているのだ。小柳友は、母のこともちゃんと「見つめて」いたのである。そもそも教室での井之脇海と教師の児嶋一哉とのトラブルは、井之脇海が、電車の中で教師がエロ本を読んでいたことを「見ていた」ことが発端となっている。子供たちはとことん大人たちを「見つめている」のだ。知らぬはおやじばかりなり。

盗み見だけではない。この映画はとことん、見つめる映画である。

ガード下のゴミ箱から電子ピアノを拾ってきて、こっそりと帰って来て忍び足で家の階段を上っていった井之脇海の足音を聞きつけ、エプロン姿で、腕をダランと垂らしながら二階を見上げて「ドーナツ食べない?」と話しかけるキョンキョンの視線を、カメラを急勾配の俯瞰に据えて撮ったショットは、まさに可憐であり、バスに乗る小柳友を、と言っても、その前の二人のいた待合室は、「空港」にしか見えないのであるが、そのバスに乗る小柳友の姿をじっと見つめる小泉今日子の視線もまた輝いている。カメラはまず小泉今日子の後ろからあおり気味で撮ってバスの中で小泉今日子に向って敬礼する小柳友を捉えたあと、小柳友をじっと見つめている小泉今日子の横顔のクローズアップへとつながれ、そして今度はバスの中からカメラは引かれ、もう一度、息子をじっと見つめている小泉今日子の瞳を強く捉えている。カメラは小泉今日子の「見つめていること」を強調している。そんな小泉今日子は、妻という「役割」に疲れている。見つめる者たちは、「見つめること」にも疲れているのだ。

★「叫び(さけび)」もまた、見つめることの映画であった。過去として見棄てられたひとりの女が、幽霊として出て来て、復讐の殺人を連鎖させてゆく。その中でひとりだけ、その女を「見つめてやった」男がいた。彼はただそれだけで、たった一度女を見つめてやっただけで、ただそれだけのことで赦されてしまう。忘れられた人間を、過去に葬り去られて無視された人間を、ただ見つめてあげること、それが「叫」という映画であった。赦された男は女の骨を拾い、まるで「長屋紳士録」(1947)のラスシーンのように新聞紙の舞う無人の東京から、ひとりで旅立ってゆく。それは「トウキョウソナタ」のオープニングの、風に舞う新聞へと密かにつながれてゆくのかもしれない。「トウキョウソナタ」もまた、「見つめる映画」である。ただ、ひたすら人を人として見つめてあげること、それだけの映画である。

だが二人だけ「見つめよう」としない男がいる。その中の一人は、家を出る時、背広とネクタイに身を包み、若い面接官にカラオケを歌ってみてくれと言われた怒りを、ヘリコプターの轟音のけたたましく鳴り響く公園のゴミ置き場にぶつけている時ですら、肩に掛けられた重そうなショルダーバッグという「役割」を手放そうとはしない。何度もずり落ちそうになる黒いバッグを必死に肩に掛け直しながら、男は「総務課長がゴミを蹴る」という役割を延々と演じ続けるのである。やたらと時計の「カチカチ」という音が耳につく津田寛治の家で夕食を食べて帰って来た夜、男は自宅の玄関で無理に「笑顔」を作ってから中に入り、ソファーで眠っている妻にろくに構いもせず、「わたしを引っぱって、、、」という妻の痛切な叫びを聞こうともせず、さっさと二階へ上がってしまう。そんな夫婦であるからこそ、この映画には「寝室」なるものは何処にも出てこない。夫も妻も、ソファーか椅子で眠るのである。

ある時男は、自分の息子が勝手にピアノを習っていたことを知って激怒し、息子を殴りつける。夫は妻にたしなめられ、「あなた、失業しているんでしょ!」と禁断の言葉を吐きかけられる。「知ってたのか?」「ええ、ずっと前から!」。、、、、、、威厳が崩壊する厳しい瞬間である。その厳しい言葉を男は、台所から一段下がった居間で聞いている。一段上の台所の妻に見おろされながら聞いているのだ。おそらくこの家の段差のあるこの空間は、この時のために選択されたのではないのか、というくらい、この上下の視覚的段差はどんな言葉よりも厳しい暴力である。それともう一つ、妻は、とっくの昔に夫の失業を知っていた=ずっと夫を観察していた、という事実が、ここでもまた露呈している。妻はちゃんと見ていたのである。知らぬはおやじばかりなりけり。

さらに男は、二階から降りてきて電子ピアノをぶつけた息子を追いかけて二階へ行き、しばらくして、この映画で初めて階段を「階段」として真正面から捉えた瞬間、まるで「風の中の牝鶏」(1948)の田中絹代のように、井之脇海が仰向けでずるずると階段を落下してくる。息子は病院へ連れて行かれ、幸い軽症で済んだものの、男はまだ「役割」から自由になろうとはしない。

そんな男は、家の中の者たちがひとたび家を出た時、どこで何をしているのかまったく知らない。窒息しそうな家を飛び出した彼らは、家族と離れた広い場所で、何かを求めて彷徨い続けている。

■⑥見つめる者たちを光で照らすこと

しゃべり過ぎ、自己分裂を引き起こした男が心中し、その男の家にやって来た香川照之は、喪服の上に白いエプロンをした女が狭い庭の掃除をしている姿を呆然と見つめている。強い風が、庭の樹木たちを大きく揺らし始める。帰り際、男はスローモーションで道路を横切ってきた一人の娘とすれ違う。カメラは香川照之の後方の生垣の上の辺りから俯瞰に据えられ、男とすれ違う娘の顔をクローズアップ気味に捉えている。その娘の右目のあたりには、カメラマンの芦澤明子と照明の市川徳充が命を賭けたような美しい夕陽がキラキラと反射して輝いている。娘は生き残っていたのだ。

小柳友が、アメリカ兵になるために手続き所で並んでいるシーンを見てみたい。しばらくすると、画面は急に外の陽が強く差してきたかのように明るくなり、小柳友の姿を強く照らし出し始めるのだ。この陽の強まりは、偶然なのだろうか。偶然というならば、ピアノの先生が、今度は朱色でなく白いショールを羽織りながら、井之脇海に「あなたには才能があります」と打ち明けたシーンでは、その直後、陽の光が急に強くなって、カメラマンが露出を調整しているような感じが出ていて、それこそ偶然に陽が強くなったのかと思われもするが、だがしかし、井川遥というピアノの先生は、この初冬とも言うべき肌寒い東京で、赤や白の大きなショールを肩に掛け、肌寒そうに肩をすぼめているにも拘らず、大きなガラス戸を左右ともすべて開放し、失われたかに見える東京の通風性を殊更作り上げている。近所から、ピアノがうるさい、という苦情が当然来るだろうし、風邪も引いてしまうかもしれない。インフルエンザにかかったら大変だ。それにも拘らず、彼女は窓を開け広げている。「閉じられていなければならない窓」を、開け放っている者がここにも存在している。そんな彼女に「暖かい光」が当てられる。これは果たして偶然なのだろうか。見つめ続けてきた人、寒そうな人に、暖かそうな光が当たっている。

★月の光
役所広司というマクガフィンに家の外へ連れ出された妻は、ショッピングセンターで二本のウーロン茶と二つのサンドイッチを買い、エスカレーターを降りたところで、オレンジ色の清掃服に身を包んだ夫と鉢合わせをする。夫は一瞬間を置いて「あっ、、」と呟いた後、そのまま走り去ってしまう。家族が初めて外部で出会った瞬間、夫という役割が崩壊する。妻は、まるで「乱れ雲」(1968)の加山雄三と司葉子が、それぞれの部屋の引き戸とカーテンを全開にしたように、車の屋根をあけ広げ、夕暮れの海へと向ってゆく。

この車のナンバープレートが「12-15」であることが、私には「自由に行こう」に読めてしまって困っている。ちなみに黒沢清は、香川照之が二度目にハローワークに行った時、その整理券の番号を「86(ハロー)」に設定して何とか香川照之を笑わせようと企むのだが、香川照之にそんな余裕は無く、代わりに私が笑ってしまい、私は一人で笑っていたのだが、周囲はまったく反応しないので気まずくなり笑いを止めた。黒沢清のせいで恥をかいた。こういうジョークは「金沢版」では削除して頂きたい。ちなみにその次に行った時の整理券の数字は56(ごくろー?)である。

海では、「あの先に何があるか見てくる」という言葉を吐いて、妻は桟橋へ向い、水平線の辺りをじっと見つめている。小泉今日子を「海」へと連れ出すためのマクガフィンに過ぎない役所広司は役割を掴み切れず、「俺には何も見えない!」とただただうろたえるばかりで何もできない。「見ようとしない二人の男」のもう一人はこの男である。この男は、エプロン姿で縛り上げられた小泉今日子の見つめる視線に「見られた!!」と大騒ぎで顔を覆った小心者であり、車の中で「アナタの気持ちわかるわ、、」という小泉今日子に包丁を向け「お前に俺の気持ちがわかるか!」と強がった男である。男は「見られていること」が、どれだけ幸せなことかを知らないのであり、その点で、香川照之と同類なのである。小泉今日子は、こんなところでも「見つめる女」を見事に演じているのだ。

二人は肩を寄せ合うようにして、緑の光線が空を包むマジックアワーの逆光の浜辺を、ロングショットで海の家へと向ってシルエットで横切ってゆく。マクガフィンの役所広司はやることもなく、それでは映画にならないので小泉今日子を犯して柱で自分の頭を打ちつけ眠っている。ヒッチコックが警告したように、ここで「マクガフィンの中身」を知りたがる者たちは即、映画そのものから脱落するだろう。

辺りは真っ暗になり、ふと水平線の彼方に光るものを見つめた小泉今日子は、海の家へ戻り、「何かが光ってる!」と、眠っている役所広司を起こそうとするが、「見つめようとしない男」は当たり前だが起きない。ビニールカーテンの窓からもう一度光を確認した小泉今日子は、外へ出て、再び見つめるが、もう何も見えなかった。小泉今日子は泣く。見事な女泣きをする。「見つめること」に疲れた小泉今日子の瞳は涙で癒され、嘘としか思えない光で青く輝いている。小泉今日子は波打ち際で座り込み、仰向けに寝そべってしまう。その周囲を、砕けた小さな波の数々が、何かに乱反射してキラキラ小泉今日子を包み込んでいる。この暗闇の時間帯に、光を発する物体といえば、唯一つ「月」しか存在しない。小泉今日子は「月の光」に包まれたのである。

海へと小泉今日子を無事導いた役所広司はマクガフィンとしての役割をまっとうし、海の中へと消えて行く。

小泉今日子は、明けようとしている浜辺をゆっくりとこちらへ歩いて来る。そこへ「トウキョウソナタ」のメロディが見事にかぶさってくる。「上着とバッグを持っていってもいいですか?」と家を出る時、役所広司に聞いたように、小泉今日子の右手には、しっかりと白いバッグが握られている。妻として、女として、、

立ち止まった小泉今日子の体を、次第に強まる朝の光線がゆっくりと温めてゆく。見つめるだけで、誰にも見つめてもらえなかった者たちが、光によって照らされてゆく。津田寛治の生き残った娘の顔を、そして徴兵センターで並ぶ小柳友を、強い光がことさらに照らしたように、見つめてきた人たちを、黒沢清は光で照らし続けている。

二階の小柳友の部屋の中を、手持ちの主観ショットで見つめながら、テレビの画面に「国境」と書かれた文字を見つめたあと、ふと廊下へ出てきた時の、背後のすりガラスを通して入ってくる逆光に包まれた小泉今日子の姿は夢としか言いようがない。続いて井之脇海の部屋のドアをあけた時にも、母の顔には、中からの暖かい光がペタリと顔に当たっている。

「見つめない男」香川照之にまともな光が当てられたのは、枯れ葉に埋もれた道路脇で、事故による失神から目覚めた時の、早朝の太陽の透き通った光線のシーンからである。車にはねられでもしない限り、この男は目が覚めないのである。やっと車にはねられた瞬間「総務課長」がパーッと男の体から飛び散ってしまったのだ。どうしてこの男がこうして映画的に罰せられたかといえば、みんなが男を見つめているのに、決して男はみんなを見つめようとはしなかったからにほかなにない。やっと目が覚めた香川照之は、鳥のさえずりを耳にしながら、ネコババしようとした金を、ほんとうらしくない遺失物袋の中へと放り込み、家へと向う。それまでは、夕暮れや夜の闇によって、影で満たされていた家の前のあの狭苦しい路地の地面が、映画の中で初めて全面太陽光線に包まれている。朝の東からの日光を、真正面から直接浴びながら、香川照之は眩しげに歩いて来る。カメラは玄関に入ってきた香川照之を捉え、そのまま香川照之を追いかけながら薄暗い部屋を捉えつつゆっくりと左へパンし、台所の左の露出オーヴァー気味に飛ばされた真っ白な窓を取り込んでピタリと止まる。釈放され帰って来た井之脇海、海から帰って来た小泉今日子、すべて同じカメラワークで撮られている。初めて家族のあいだに「共通の何か」が生まれ始める。父は、妻と次男と3人で、掃除夫のオレンジの制服に身を包んだまま、むしゃむしゃと朝食を貪り食っている。香川照之はひたすら食う。もはやここには無理に「役割」を演じる男の姿はない。

■⑦風と窓
映画は見事に様相を変化させながら、ラストシーンへと向ってゆく。井之脇海のピアノ面接の試験会場に、夫婦は少し遅れて入って来る。夫の服からは、ネクタイも背広も剥ぎ取られ、ラフなスカイグレーのジャケット姿でドアを開けた夫の肩には、あの重いショルダーバッグが掛けられていない。「役割」という重荷を降ろした人間の爽快さが香川照之を包み込んでいる。

一人の人間としてそこにいる夫は会場のドアを開け、妻の手がドアに触れるまで、じっとドアを押さえて待っている。さらに夫は、もう一つのドアを開け、妻の手がドアに触れるまで、ドアを押さえて待っている。ほんの一瞬の出来事だが、この映画のいったいどこに、一人の人間が、ただ人間であることそれだけの理由で、こうして気遣われる瞬間があっただろうか。寒空の中、ティッシュペーパーを配っているバイトの小柳友を気遣い、手を出してそれを取ってあげる通行人はたった一人しかいなかったはずだ。だがここで夫がドアを開け、妻の手がドアに触れるまでドアを支える。夫は妻を、一人の人間として、ひとりの女として尊重している。これが映画なのだ。

井之脇海が入って来て、「月の光」を演奏し始める。「ほんとうらしさ」を極端に嫌う黒沢清が、人物がピアノを「ほんとうらしく」弾いているシーンを延々と撮り続けるなど、いったい誰が想像しただろうか。井之脇海は、吹き替えのピアノの音と合わせて「ほんとうらしく」手を合わせてピアノを弾いているフリをしている。だが実際に井之脇海が手を動かし始めると、映画は「ほんとうらしさ」という「外部」へと流されることはなく、ひたすら映画の運動としての持続を獲得していくのだ。もはやここまで「映画の磁力」に引き寄せられた画面を、外部へと逃避させてしまうことなど、誰にもできはしない。そしてこのシーンは、この井之脇海がピアノを延々と弾き続けるシーンは、絶対に必要であったのだ。それを「見つめる」視線を画面の中に収めてあげるために。それを弾く少年を、光で包み込むために。

椅子に座り、剥き出しの人間として父は、ピアノを弾いている息子を初めて見つめ始める。まるで息子を初めて見つめたかのように、じっと見つめる香川照之の瞳に涙が滲んでくる。父はじっと息子を見つめている。会場の人々も、井川遥も、一人、二人と、ピアノを弾いている井之脇海を取り囲み始め、みんなが彼を見つめ始める。それまでは決して誰にも見つめてもらえず、ひたすら隠れて見つめ続けることしかできなかった一人の少年が、みんなに見つめられ始める。会場は暗くなり、見つめられている少年の周囲だけを、光が包み始める。ここでもまた「光」が、見つめ続けてきた者たちを照らし始める。この抽象的な光の空間はもはや、夢なのか現実なのか判らない。夢なのかもしれない。そもそもこの歪曲した遠近法不在の空間は、始めから夢だったのかもしれない。だが仮に物語は夢だとしても、映画の画面は紛れもなく、光と瞳と風という現実に包まれている。生き残った中学生の娘の顔を照らした光は紛れもなく彼女を照らし、小泉今日子を照らした月の光は、紛れもなくそこに存在している。見つめてきた者たちを暖めるような、真っ白な光がピアノの少年の周りを包み始め、映画の最初のカットに呼応するように、会場の窓に掛けられたレースの白いカーテンを風が揺らしながら、その風を、風にゆれるカーテンを見たとき、「ああ、窓が開いている」と、思わず叫びそうになった、この窓が開いているからこそカーテンが風に揺れているのだと、本来であれば、音響の観点からも「閉められているべき窓」が、ここでもまた開いているという感動が、「雨風の中、閉められているべき窓」を無理に開け放った小泉今日子の欲望に重ねられ、泥棒として入ってきたあの男が実は「鍵屋」であり、「鍵をこじ開け、窓を開けてくれた男」であることがやっと感じられたとき、寒くて仕方の無いピアノの先生が、大きなショールを肩から掛けて、寒さに震えながらも「閉められているべき窓」を大きく開け放っていたことを想起したとき、もはや成瀬映画の、あの縁側の風通しも、あの広さも存在しない「トウキョウ」という狭い大都市に、ホウ・シャオシェンが「珈琲時光」で、いまだトウキョウには「小津」が生きていることを教えてくれたように、閉められているべきあの小さな窓から吹き抜ける小さな風が、トウキョウの風として、成瀬の風として、生きていたことを悟った時、映画は閉塞から開放への大いなるエモーションに包まれながら、人は役割としてではなく、ただひたすら人として見つめてあげたとき、ただそれだけで人は輝くのだ、まず、人をみつめよう、そうすれば、必ずや彼は、彼女は、輝くだろう、そんな現代的希望を、この美しい「トウキョウソナタ」は奏でながら、家族は去り、風は止み、画面は暗くなり、人々は会場の後片付けをしながら、ピアノはひっそりと閉じられる。

映画研究塾 2008.12.10